透明への追想、2

安堵している暇もなく誰かが家の扉を規則的に叩いている。

まだ私は意識が朦朧としており頭に鉛でも入っているような重圧感を中拭えない。

ノックは繰り返される。

静かに現実を叩きつけるように。

ああ、そうか

ぼやいた。私はこんな風に寝ている場合ではなかったのだ。

XXXX年X月X日の午後9時過ぎ、東京都新宿区、タチバナグループの会長タチバナケイゾウさん(62)が元社員であるヤヨイマコト容疑者(40)により自宅の駐車場内で刺殺された模様。

尚、ヤヨイ容疑者は在職中のXXXX年XXXX年の三年間に渡り会員制ゴルフ倶楽部の口座から合計一億三千万円の金銭を着服していた疑いもあり、殺人罪と業務上横領罪の容疑で全国指名手配中と何故か私がなっている。

平凡ながらも私はコツコツと真面目に生きて来た。

犯罪だなんて考えた事もなく、学歴も高卒で数字なんて特に疎い。緻密に人様の金を騙し取るほど私に知能なんてない。

タチバナグループの会長の娘と私がたまたま同級生だっただけの縁で、運転手として拾って貰っただけである。

18歳の時に入社が決まり、免許を取得させて貰えた頃は住み込みの清掃員として雑務をこなしながら専属の運転手として教育して貰った。

縁があった娘のタチバナユミは精神病を幼少期から患っていたようで、学校内で自傷行為を繰り返していた。

そんな彼女に誰も近寄ろうとはしなかったが、私は特に気にする事もなく彼女と友達となった。

それからユミは自傷行為をすることも無くなり、私を親友と呼んだ。私も優しい彼女が好きだった。恋愛感情と言ったものは無く純粋な友達として。

当時、私には片思いをずっとしていた女子生徒が居て、ユミは私よりも先に自分の恋人を紹介してくれた。

あの頃は、お互いを親友と認め合っていた。

家柄なども関係なく、私達は本当に仲が良かった。

それを思い返せば、進路の選択から私達の歯車は狂い始めたのかもしれない。

私は進学出来るほど裕福な環境では無かったので、就職に困難していた。

働けるなら何でも良かったのだが、私は言葉遣いや礼儀など無知で。片っ端から面接で落とされた。

学校一とまで言われてしまうほど不良生徒だったので、ユミと一緒で私もまた大の嫌われ者であったから彼女と友達になれたのかもしれない。

仕事に困り、水商売か力仕事に就こうかと考えていた時、ユミがタチバナグループの運転手として就職しないかと話しを持ち掛けてくれたのである。

そんな話しは断ろうとしたが、私の内定は既に決められていた。

ユミを救った恩人としてタチバナ家は私を迎え入れてくれたのである。

しかし真の恩人の意味とは、この事だったのだろうか。

私が安易にユミの傷に触れていなければ、こんな事にはならなかったのかもしれない。

彼女は悪魔だ。あの一家も全員。

こんな濡れ衣を私に着せたのは一体誰だ。

家族全員が疑わしい。

この計画を誰かが練り上げ、水面下で温めておき、ずっと待っていた時が来て決行したのではないのか。

しかしこれは私の仮説に過ぎない。

もしかしてやはり私が犯人である可能性もある。

自分が夢遊病か何かだったとして、人格が変わって、そんな事をしたのかもしれない。

記憶がないのだ。それも丁度、会長が殺された時間帯の記憶が。私は何をしていたのだろう。何も思い出せない。

気づくと駐車場に寝転がって、血のついた包丁を手に持っていた。シャツや顔にも大量に誰かの血が付着していた。

意味が分からず辺りを見回したが、会長の死体を私は見ていない。

わけが分からないまま私は自分の車に乗り換え、その場から逃げた。

自分が誰に何をしたのか分からないまま。

不幸中の幸いだったのは自分が黒いスーツを着ていた事と、会長は日頃から車内で着替えをよくされる事。

替えのシャツなら自分の車の中にもストックがあったので、ジャケットだけ処分を考えた。

公園の公衆トイレで顔を洗い、気分が悪くなるほど香水を振りかけた。

使用した香水は会長の愛人の忘れ物で丁度処分を頼まれていたが、捨てる前に役に立ってくれた。そのまま私はホテルに一旦避難して、頭を整理したが思い出せることは記憶を失っている前後のこと。

会長は車を降りて駐車場を出て行く時にはまだ生きていた。その記憶は確かにある。

それから私は車から降りようとして、降りたのか。降りなかったのか。

会長の背中を見送った後から数分間の記憶が全くない。

駐車場に到着したのは午後8時40分辺りであっただろうか。何分かまでは正確に思い出せない。

気づいた頃は午後9時30分くらいだったような。

それも何分かまでは曖昧でイイ加減である。

ただ包丁を握っていた右手に腕時計をしており、気が動転しながらも時刻が目に入って9時を過ぎていた記憶はある。

事件の事実を知ったのは翌日だった。

慌ててホテルからチェックアウトすると、歌舞伎町にある知り合いの店へと逃げ込んで一週間身を潜めた。

そこでこの曰く付きアパートを紹介して貰ったのだが。

今の私に幽霊が出るなんて噂などはどうでも良かった。とにかく逃げれたらと。

犯人でもないのに逃げるしか分からなかった。

警察に自首をしたほうが良いとは考えたが、私の話しなど通用するわけが無いだろう。

無罪なのに何故刑務所に入らなければならない。

弁護士が付いたとしても出来レースである。

殺人だなんて自分とは全く無縁だが、無縁そうではない余所者の私を家族のようにして家に招き入れておけば、他人として一番に切り離せる存在が私である。

顔や雰囲気からしても犯人役には持って来いのような男だ。

そんな話しが非現実的で現実となっている。

殺人に重ねて更に一億三千万の横領とは何だ。

私はタチバナグループの役員でも何でもない。

単なる運転手だと言うのに、私が全ての容疑者である流れは変わらず、誰も否定などしない。

四角い画面の向こうであの男ならやりかねないそう誰かが言っていた声が鮮明に聞こえた。

顔は映されておらず性別しか分からなかったが、色んな男と女が私を犯人だと決定付けて言っていた。

その言葉達が胸に何箇所も突き刺さって、私も死んでいるようだ。

コン、コン、コン、コン

間違いない。お迎えのノックだろう。

部屋に押し入らないようだが、中引き下がる気配もない。

どうせ居場所が知られたのだろう。

警察から逃げきれるなんて不可能だ。

私は布団から出ようと、ゆっくりと立ち上がった。

呼吸を感じないなら生命も感じない力でゆっくりと前へ一歩。

中に入れてはいけません

不意に女の声がして後ろから腕を引っ張られると、布団に爪先が絡まって前へと転倒した。

私が出ましょう

声のする方を見上げると、身に覚えのある若い女の姿がハッキリと見えた。

貴方はミ、ミツコさん?

私は開いた口が塞がらず、立ち上がれもしないなら動けない。よく見れば天井から吊るした綱はそのままで。

名前を覚えて下さってたのね。本日もマコトさんに見て貰えて嬉しいです。そこで大人しくしていてくださいな

昨夜の出来事は夢じゃなかったのだと、また新たなパニックが襲う。

あの女は本当に幽霊なのだろうか。実は生きてる人間じゃないのだろうか。

止めどない怒涛の大混乱に板挟みにされ、私の頭や心臓は押し潰されそうであった。